前回は、新自由主義がもたらした成果と、その一方で残された課題について考えました。
市場の自由や競争は、社会に活力をもたらします。しかし、「自由だから何をしてもよい」ということではありません。競争が公正であるためには、自由を支えるルールや倫理が必要です。
では、そもそも「自由」とは何なのでしょうか。
今回は、自由と制約、そしてその背景にある「共通善」や倫理について考えてみたいと思います。
1.自由とは、好き勝手にできることなのか
自由について考えるとき、英国の政治哲学者アイザイア・バーリンが論じた、自由の衝突をめぐる一つの印象的な比喩を思い浮かべます。
それは、オオカミに無制限の自由を与えれば、ヒツジの生命や自由が脅かされる、という趣旨のものです。
オオカミが何の制約もなく行動できることは、ヒツジにとっては生命を脅かされることにもなります。
つまり、ある人の自由が、別の人の自由や安全を損なうことがある。
社会の中で生きる以上、「好きなことを好きなようにできること」だけを自由と呼ぶことはできません。私たちの自由は、常に他者の自由との関係の中にあります。
だからこそ、自由には何らかの制約が伴います。
重要なのは、「自由か、制約か」という二者択一ではありません。
どのような自由を守るために、どのような制約が必要なのか。
ここを考えることだと思います。
2.自由を支える「共通善」と倫理

個人であれ企業などの組織であれ、社会の中で活動する以上、他者との関係から一定の制約が生まれます。
強制力を伴うものは法律として定められます。法律に至らなくても、経済団体や業界団体が自主的なルールを設ける場合があります。
企業には法的責任だけでなく、「道義的責任」が問われることもあります。
国際社会でも、条約や国際的な合意、国連などの決議が各国の行動に影響を与えることがあります。
では、そうした制約は、何を基準に決めるべきなのでしょうか。
私は、その基準の一つが社会にとっての「共通善」であるべきだと考えています。
社会は、一人の人間や一つの企業だけで成り立っているわけではありません。さまざまな立場の人や組織が共に生きていくためには、自分にとっての利益だけでなく、社会全体にとって何が望ましいのかという視点が必要です。
私は、自由とは、ただ制約から解放されることではなく、自らの行動が社会の「共通善」に照らして正しいのかを問い続ける中で成立するものだと思っています。
では、「共通善」はいつの時代にも変わらないのでしょうか。
私は、そうではないと思います。
社会環境や技術、経済の仕組みが変化すれば、それまで想定していなかった新しい問題が生まれます。個人や企業の利益追求が、思わぬ形で社会全体に不利益をもたらすこともあります。
いわば、社会の仕組みに「バグ」が見つかるようなものです。
そのバグに気づいたとき、私たちは新たなルールや倫理をつくり、社会の「共通善」を更新していく必要があります。
一方で、「不易流行」という言葉があるように、時代が変わっても失ってはならないものもあるでしょう。
人間の尊厳、公正、他者への配慮。
そうした根本的な価値まで揺らいでしまえば、社会そのものが不安定になります。
「今だけ、金だけ、自分だけ」。
私たちは知らず知らずのうちに、そのような価値観に傾いてはいないでしょうか。
これは誰かを批判するための問いではありません。私自身も含め、一人ひとりが自分に問い直す必要がある問題だと思っています。
3.必要なのは「規制強化か、規制緩和か」ではない
自由と制約を考えるうえで、もう一つ重要なのが「規制」です。
規制については、「強化すべきだ」「もっと緩和すべきだ」という二つの議論が対立しがちです。
しかし、本当に重要なのは、規制の数を増やすか減らすかではないと私は考えています。
何を守るために規制し、何を活かすために規制を緩和するのか。
その判断が重要なのではないでしょうか。
この問題を考えるうえで、経済学者・宇沢弘文の「社会的共通資本」という考え方は、大きな示唆を与えてくれます。
宇沢は、人々が豊かな生活を営むために社会全体で大切に管理すべき基盤について論じました。
代表的なものとして、次のような領域があります。

こうした分野を、すべて市場競争だけに委ねてよいのでしょうか。
市場に任せることで効率性や革新が生まれる分野があります。一方で、市場原理だけでは守ることのできない価値もあります。
自然環境、生活に不可欠なインフラ、教育や医療などは、目先の採算性だけでは測れない社会的価値を持っています。
だからこそ、必要なところには適切な規制を設ける。
反対に、既得権益を守るためだけに残され、新しい挑戦や参入を妨げている規制については見直す。
私は、日本の健全な成長のためにも、「規制強化か規制緩和か」という単純な議論から一歩進み、**社会の共通善に照らして、その規制は本当に必要なのか**を一つずつ問い直す必要があると思っています。
4.いま、「新たな精神革命」が必要なのか
ここまで自由と倫理について考えてくると、さらに大きな問いに行き着きます。
私たちはいま、社会の価値観そのものを転換する時期に来ているのではないでしょうか。
歴史を振り返ると、紀元前1千年紀の中頃を中心とする時代に、中国、インド、古代ギリシャ、古代イスラエルなどで、人間の生き方や倫理を深く問い直す思想が相次いで発展しました。
一般に「枢軸時代」と呼ばれる時期です。
仏教における「慈悲」、古代イスラエルの宗教的伝統から後のキリスト教にもつながる「愛」、ギリシャ哲学における「徳」、儒教における「仁」。
それぞれの思想には大きな違いがありますが、人間の内面や倫理、生き方そのものを問い直したという点では、共通するものがあります。
なぜ、こうした思想が同じような時期に各地で生まれたのでしょうか。
広井良典氏は、人口減少社会や「地球倫理」をめぐる著作・論考の中で、人口や経済の規模が拡大し、資源・環境上の制約に直面する局面では、社会の関心が「物質的生産の量的拡大」から「文化的・精神的発展」へと向かう可能性を、一つの仮説として論じています。
この視点は、現代を考えるうえでも非常に示唆的です。
大航海時代、産業革命、工業化、そしてグローバル化。
人類は長い時間をかけて活動領域と経済規模を拡大してきました。
しかし今、私たちは「地球の限界」と「社会の限界」に直面しています。
だとすれば、現代もまた、物質的な豊かさだけではなく、人間の内面や社会の価値観を問い直す、新しい転換期にあるのではないでしょうか。
広井氏は、こうした時代を考える理念として「地球倫理」という考え方を提示しています。ここでは、広井氏の議論を私なりに整理した視点は下記の通りです。

私は、この考え方に強く共感します。
持続可能性(サスティナビリティ)が問われる今だからこそ、有限な地球の上で、人間は自然とどう向き合い、他者とどう共に生きるのかを、もう一度考える必要があるのではないでしょうか。
人類はこれまでにも、幾度となく大きな危機を乗り越えてきました。
「地球の限界」「社会の限界」が見え始めた今だからこそ、経済や制度だけではなく、私たち自身の価値観にも変化が起こることを、私は期待したいと思います。
5.持続可能であるだけで、私たちは幸せなのか
ここまで、自由、倫理、規制、そして地球規模の価値観について考えてきました。
しかし、もう一つ大切な問いがあります。
社会が持続可能であれば、それだけで私たちは幸せなのでしょうか。
持続可能性(サスティナビリティ)は、これからの社会に不可欠な条件です。
けれども、それはゴールそのものではありません。
その持続可能な社会の中で、一人ひとりが心身ともに健やかで、自分らしく、幸せに生きられること。
そこまで考えて初めて、私たちが目指す社会の姿が見えてくるのではないでしょうか。
次回は、「私たちにとって幸福とは何か」「ウェルビーイングとは何か」について考えてみたいと思います。
参考資料・出典
- Isaiah Berlin, 自由の衝突に関する議論(「オオカミとヒツジ」の比喩については趣旨として参照)
- Adam Smith Works等の思想史資料(自由・倫理に関する背景確認)
- Hirofumi Uzawa, *Economic Analysis of Social Common Capital*(社会的共通資本の「自然資本・社会的インフラ・制度資本」の分類に関する確認)
- 広井良典『人口減少社会のデザイン』および枢軸時代・「地球倫理」に関する論考(J-STAGE等)
- カール・ヤスパースの「枢軸時代」に関する思想史上の議論(年代・位置づけの確認)




