前回は、経済成長はそれ自体が目的ではなく、人々が心身ともに健やかで幸せに暮らす「ウェルビーイングな社会」を実現するための手段であるべきだ、という私の考えを述べました。
では、私たちはこれまで、どのような考え方のもとで経済成長を追い求めてきたのでしょうか。
今回は、1980年代以降、世界の経済政策に大きな影響を与えた「新自由主義(市場原理主義)」について考えてみたいと思います。
新自由主義は、停滞していた経済を立て直し、民間の活力を引き出すうえで一定の成果を上げました。一方で、その後の社会には格差や雇用、公共サービス、環境など、さまざまな課題も残しました。
その功罪を振り返ることは、これからの資本主義を考えるうえで避けて通れないテーマだと思います。
1.サッチャー首相とレーガン大統領の登場
1970年代から80年代にかけて、英国と米国はそれぞれ深刻な経済問題に直面していました。
英国では、長期的な経済停滞や労使対立などを背景に、いわゆる「英国病」が問題となっていました。米国でも、インフレや景気停滞に加え、日本製の家電製品や自動車などの台頭によって製造業が厳しい競争にさらされていました。
そうした時代に登場したのが、英国のマーガレット・サッチャー首相と、米国のロナルド・レーガン大統領です。
その政策を思想面から支えたものとして、フリードリヒ・ハイエクやミルトン・フリードマンらの考え方が挙げられます。
個人の自由や市場競争を重視し、政府による介入をできるだけ小さくする。こうした考え方は、それまでの政策を大きく転換する理論的な背景となりました。
サッチャー政権では国営企業の民営化や規制改革、社会保障制度の見直しなどが進められました。レーガン政権でも、減税、政府支出の抑制、規制緩和などを重視する、いわゆる「レーガノミクス」が展開されました。
これらの政策は、民間活力を重視する方向への大きな転換となりました。一方、米国のインフレ低下については、レーガン政権の政策だけでなく、1979年に就任したポール・ボルカーFRB議長の厳しい金融引き締めが大きな役割を果たしたことも忘れてはなりません。
しかし、その一方で何が起きたのでしょうか。
英国では地域間格差や社会保障をめぐる問題、民営化された公共インフラのあり方などが、その後も議論されることになりました。米国でも財政赤字や貿易赤字、格差の拡大などが課題として残りました。
私は、こうした社会的・経済的な変化の積み重ねが、その後の英国のEU離脱や、米国における政治的分断を考えるうえでも、無視できない背景の一つではないかと考えています。
新自由主義は経済に活力を与えました。しかし同時に、私たちはその過程で何を失ったのか。
そこを考える必要があります。
2.新自由主義とアダム・スミス

市場で自由に競争することによって経済は成長する。
新自由主義を語るとき、しばしばその思想的な源流としてアダム・スミスが挙げられます。
確かに『国富論』では、人々がそれぞれの利益を求めて活動することが、結果として社会全体の経済発展につながっていくという考えが示されています。
しかし、アダム・スミスが考えた「自由」は、果たして何をしてもよいという意味だったのでしょうか。
スミスは『道徳感情論』において、人間が他者への共感や公平な判断を持つ存在であることについて論じています。
私は、アダム・スミスの市場観を考えるとき、自由な競争だけを切り離して捉えるのではなく、その背景にある道徳や公正という視点も忘れてはならないと思っています。
競争が社会を豊かにするためには、少なくとも次のような条件が必要ではないでしょうか。
1. 自由な競争が、フェアプレーの成り立つ場で行われること
2. 資産や利益が社会全体の豊かさにもつながる形で活用されること
3. 強者が弱者を一方的に支配するのではなく、相互利益の関係が成り立つこと
企業経営においても、「自由だから何をしてもよい」ということではありません。
利益を追求すると同時に、自らの判断を社会から見たときに公正と言えるのか。いわば自分の中に「公正な第三者の視点」を持つことが求められるのではないでしょうか。
自由な市場が健全に機能するためには、自由と同時に自制や倫理が必要なのだと思います。
3.競争のスタートラインは公正なのか
ここで、もう一つ考えてみたいことがあります。
現在、格差や貧困について「本人の努力の問題」「自己責任ではないか」という意見を耳にすることがあります。日本でも、この20年ほどでそうした考え方が広がってきたように私は感じています。
しかし、その前に考えるべきことがあります。
そもそも、私たちは同じスタートラインから競争を始めているのでしょうか。
人種、国籍、性別、障害の有無など、本人の努力だけでは変えることのできないさまざまな要因が、社会における機会に影響を与える場合があります。
さらに大きな要因の一つが、収入と資産の格差です。
特に、フローである収入だけでなく、世代を超えて蓄積されるストックとしての資産の違いは、教育や住環境、挑戦できる機会など、その後の人生の選択肢にも大きく関わります。
トマ・ピケティは『21世紀の資本』などを通じて、資本と所得の格差を歴史的に分析しています。
また、原稿で参照した「世界不平等レポート2022」に基づく資料では、2021年時点で世界の富の37.8%を上位1%が保有する一方、下位50%の保有割合は2%とされています。
これほどスタートラインに差がある状況で、結果だけを見て「すべて自己責任」と言うことが、本当に公正なのでしょうか。
私は、市場競争を否定するのではなく、競争が公正に行われるための条件を整えることこそ重要だと考えています。
そのためには、一国だけではなく、国際社会全体で公正な税制や適切な分配の仕組みを考える必要があります。
2021年には、OECD/G20の「包摂的枠組み」で、大規模な多国籍企業を対象とするグローバル・ミニマム課税について、最低実効税率15%を柱とする国際合意が形成されました。こうした動きも、国境を越えた過度な税率引下げ競争に一定の歯止めを設け、公正な競争環境をつくるための一つの試みと見ることができます。
日本もまた、この議論に積極的に関わり、役割を果たしていく必要があると思います。
4.新自由主義が残した5つの課題
では、新自由主義の広がりは、社会や地球環境にどのような課題を残したのでしょうか。
私は、大きく次の5つの視点から考える必要があると思っています。

収入・資産の格差については前項で触れました。
雇用についても、若者の就職難や失業、非正規雇用など、国や地域によって形は異なりますが、「働けば将来への安心を得られる」とは必ずしも言えない状況が生まれています。
この問題については、今後、日本における人的資本を取り上げる回で、さらに多面的に考えたいと思います。
社会保障については、「どこまでを個人の責任とし、どこからを社会全体で支えるのか」という根本的な問いがあります。
社会の安定は、市民の安心があってこそ成り立ちます。私は、セーフティーネットは単なる給付制度ではなく、民主主義社会を安定させる重要な基盤だと考えています。
公共サービスについても同様です。
民営化によって効率化やサービス向上が期待できる分野はあります。一方で、水道や交通など生活に不可欠なインフラまで、利益の論理だけに委ねてよいのかという問題は残ります。
民営化か公営化かという二者択一ではなく、公共性をどのように守りながら効率性を高めるのか。その制度設計こそが問われているのではないでしょうか。
そして、自然環境の問題です。
経済成長を優先するあまり、自然環境への負荷を外部に押し出し続ければ、その代償はいずれ社会全体が負うことになります。気候変動による異常気象や災害の激甚化は、経済と環境を別々に考えることができないことを私たちに突きつけています。
宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』には、千尋の両親が目の前のご馳走をむさぼるように食べ続け、豚になってしまう場面があります。
私は時折、あの場面を、経済成長という「ご馳走」を際限なく求めてきた私たち自身の姿と重ねてしまいます。
もちろん、経済成長そのものが悪いのではありません。
問われているのは、「何のための成長なのか」「その成長によって誰が豊かになるのか」「その代償を誰が負うのか」ということです。
私たちは今、資本主義そのものを否定するのではなく、もっと人間を中心に置いた資本主義はあり得ないのかを考える、大きな転換点にいるのではないでしょうか。
5.「自由」とは何か
今回は、新自由主義が社会にもたらした成果と、その一方で残された課題について考えてきました。
市場の自由や競争は、社会に活力をもたらします。しかし、その自由が誰かの安全や機会を奪うとすれば、それを無条件に「自由」と呼んでよいのでしょうか。
ここまで考えてくると、次の問いに行き着きます。
そもそも「自由」とは何でしょうか。
自由とは、誰からも制約されず、自分の利益を追求できることでしょうか。
それとも、他者の自由や社会全体の公正を守るための、自制や責任を伴うものなのでしょうか。
市場の自由を考えることは、私たち自身の自由を考えることでもあります。そして、公正な競争を考えることは、その自由を支えるルールや倫理を考えることでもあります。
次回は、「自由とは何か。その自由を支える共通善や倫理とは何か」という原点から、もう一度考えてみたいと思います。
参考資料・出典
- Ronald Reagan Presidential Library, *The Reagan Presidency*(レーガノミクス、減税・歳出政策に関する確認)
- Federal Reserve History, ボルカーFRB議長期のインフレ抑制・金融政策に関する資料
- Adam Smith, *The Theory of Moral Sentiments*/Adam Smith Works(「公平な観察者(impartial spectator)」に関する確認)
- World Inequality Lab, *World Inequality Report 2022*(2021年の世界の富の分布に関する確認)
- OECD, *Global Minimum Tax*/*Minimum Tax Implementation Handbook (Pillar Two)*(グローバル・ミニマム課税・最低実効税率15%に関する確認)
- Ofwat, *Water sector overview*(イングランド・ウェールズの水道事業の現状に関する確認)
- Eau de Paris, 2010年のパリ水道再公営化に関する公式資料




